第八回八ヶ岳UFOコンベンション

これが終わらないと師走が始まらない。私にとって初冬のメインイベントです。
もう八回目になりました。八ヶ岳UFOコンベンション。
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夏前から打ち合わせを始めていました。実務担当の山木さんと企画担当のマジョさん。
ほとんどの事はこの二人がいないと前に進みません
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さぁ、本番。13:00開会ですが、スタッフは10:30から集まって準備に余念がありません。
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そして
今年も総合司会は愛ちゃん。進行が楽しくスムースです。
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会場はネオオリエンタルリゾート八ヶ岳。少しあやしい(?)雰囲気が今日の会にピッタリです
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今回も満員御礼、スタッフも含めて130名となりました。
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事情により急遽沖縄から講師として駆けつけてくれた中津川昴さんがトップバッターです。最新UFO情報とアカシックレコードの話を織り交ぜながらの楽しい講演です。終わってもファンの皆さんに取り囲まれて大変でした。
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休憩時間も話が弾みます。
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二人目は木内鶴彦さん。臨死体験、死後体験のお話が面白い。そしてそこから学んだことは「地球環境を大切に守るということだった」ということです、へ~え(^^)v!、その必要性を真剣に語ってくれる姿に私はうっかり、「臨死体験も悪くないなぁ」と思ってしまったのです(^^;。
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最後の講師ははやし浩司さん。先のお二人は当コンベンションでもおなじみの講師でしたが、はやし浩司さんは初めての出演でした。いや~やっぱり最高でした。
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UFOから先史文明までいろいろ調べていくうちに、つい最近になって大変な事実に遭遇してしまったらしいのです。あまりにそれが「大変」すぎて今まで調査してきたことは「もうどうでもいい」ことに見えるくらいだそうですが(≧▽≦)、今日はひとまず「どうでもいいこと」の講演をしてもらいました。「縄文イナンナ説」という興味深いお話でした、ちっとも「どうでもよくない」お話でした。で、近いうちに当コンベンションでその「どうでもよくなってしまった事柄」が何なのかをお話してもらいましょう♪

さあ、ディナータイムです。これが超豪華!
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田中総支配人が「おいおい、キッチンの連中大丈夫か」とあまりのサービスぶりを心配していました(^^)v
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乾杯は参加者さんの中から皆勤賞の藤枝縁さん。
ご自分でも本を出版されており、その宣伝も兼ねて。
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さあどんどん食べましょう
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お腹いっぱいで動けません
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食後もまだまだたっぷりと楽しいお話がありますよ。
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講師のお三方に登壇していただきました
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司会はマジョさんにバトンタッチ
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会場の声を拾いましたが、いや~皆さんすごい体験をお持ちです♪
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参加者さん達と講師の方との「ぶっ飛んだ」やり取りで、あっという間に時間が過ぎてしまいました。
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そして最後の「ベントラタイム」
去年は司会の愛ちゃんがUFO写真をスマホにおさめました。
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カウントダウンで灯を消して、皆でUFOさんを呼びました♪。
今年はどなたが撮影に成功するでしょうか
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帰ってPCで拡大してくださいね。

今回もとっても楽しい会となりました。
お馴染みの方々とも再開できました
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あ、スタッフ全員の皆さんと写真を撮るのを忘れた(≧▽≦)
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では、ひとまず、報告はここまでとします。
また来年お会いいたしましょう。
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特別支援学級の話し。

今日はちょっとマジメ。長文です。
仲間と毎月1回発行しているメールマガジンに書いた記事を転載します。

【多賀屋の八ヶ岳与生】 
   ~「余生」ではなく「与生」を加齢にあ、華麗に生きる話~ 

 ■今月は「八ヶ岳」とは関係のない話を書きます。
                 小中学校の「特別支援学級」の話です。

    少し前までは「特殊学級」と呼ばれていました。「あすなろ学級」や
   「養護学級」等、学校によって様々に呼ばれている場合がありますが、
   「肢体不自由者」「身体虚弱者」「視覚障害者」「聴覚障碍者」「知的
   障害者」「その他の障碍者」に教育の機会を開き、生活上の困難を克服
   し自立を図る目的であることは同じです。
   小中学校の間は義務教育なので、希望する親はいつでも子を入れること
   が出来ますが、必ずしも全小中学校にその学級が置かれていませんので、
   その場合は学区を超えて通学することも可能です。

    1890年に長野で、1901年に群馬で、1905年に大阪で次々に特殊学級が
   「実験的に」設置されるなど、その歴史は古いです。1926年、東京に「吃
   音学級」が設置され最初の言語障害特殊学級となりました。
   その後「身体虚弱特殊学級」「弱視特殊学級」「難聴特殊学級」「肢体不
   自由児対象の養護学級」などが主に東京の学校で順次設置され、ようやく
   1947年「学校教育法」制定により、特殊学級の位置づけが法的に明確とな
   りました。(2006年「学校教育法」の改正により「特殊学級」が「特別支
   援学級」と呼称が変りました)

    ここまでは単なる「特殊学級から特別支援学級への変遷の歴史」です。
   今日書きたかったのは学級を任される「教員」の資格の問題です。
   変遷の歴史を一読すれば、一口に「そこに通う生徒」といっても「目の悪
   い人」「耳の聞こえない人」「肢体が不自由な人」「吃音の人」「知的障
   害の人」などなど様々だということが分かります。
   その学級を担当する教員はかなりの専門家か、教育をうけてなんらかの免
   状か資格を取得した方々でないと勤まらないはずと、私は思っていました。
    しかし現状では「教員免許」を持っていれば誰でもが任されてしまうの
   です。逆に、「教員免許」を持っていないと「特別支援学級」で教えるこ
   とはできないことになっているのです。このことは「普通の教員が特別支
   援学級に人事異動された場合、生徒に専門的指導ができない」という側面
   と「専門的指導が可能な人物でも教員免許を持っていないと指導ができな
   い」という側面の、両面からの弊害となって表れてきています。

    「教育職員免許法」というものがあり、「特別支援学校教員は特別支援
   学校の教員の免許状を有していなければならない」となってはいますが、
   同法附則の16で「当分の間は特別支援学校の免許状がなくても特別支援学
   校の教員となることが出来る」となっており、事実上の骨抜き法とされて
   いることが大問題です。
    専門の教員不足等の問題もあるのかと思われますが、それならば「教員
   免許がなくても有資格と認定された専門家は特別支援学級の教員となるこ
   とが出来る」と附則に付け足しては如何だろうかと思うのです。
    例えばある症状の生徒には言語聴覚士の援助が必要だとします、しかし
   現在のところ「何も特別知識のない一般教員」が対応にあたっています。
   一方、言語聴覚士などの多くは教員免許をもっていません。従ってそれら
   の知識や技術は特別支援学級では発揮できません(彼らは主に病院などで
   働きます)。教員免許と他の専門資格の両方を取得することは、時間的に
   も金銭的にも相当な負担を伴います。両方の資格を持つことは現実的では
   ありません。現状では多くの特殊な事情を抱えた子供たちが、なんらの専
   門知識を持たない普通の大人に預けられている、といった状況にあると最
   近知った私は驚きました。それでいいのだろうか?

    また、教員たちにとって、特別支援学級に人事異動されるということは
   多くの場合想定外で、現実には「左遷」と捉えられているケースも少なく
   ないようです。そんなケースでは教員自身がやる気をなくし、生徒たちを
   「適当に」見る、といった状況が発生する危険も孕みます。
   一方で「特別支援学級」こそ働き甲斐のある場所だと、意欲に燃えた教員
   も多くいるはずです。そんな教員には有効な資格や免状を取るための勉強
   期間として1年~2年程度の有休制度を設けたらどうかと思うのです。
    先ほど「附則に付け足しては」と書きましたが、実際にはそんな姑息な
   手段ではなく、特別支援学級の教員資格については抜本的な改正をしてい
   ただきたいと私は願うのです。
   そうでなければそこに預けた親もそこに通う生徒も「困難を克服し自立を
   図る」ことなど思いもよりません。

    こんなことを急に書いたのも、今春、娘が言語聴覚士と教員免許を持っ
   て、ある学校の特殊学級で仕事をすることになり、そこでの様々な矛盾と
   問題点をなんども聞かされ、現実を知ってしまったからなのです。
   幸い私には「子供の教育の実践家」で「子供の教育」を自らの主張のメイ
   ンテーマとして論陣を張り、今年の参議院選挙で国会議員に当選した友人
   がいます。その国会議員に話をぶつけに行こうと考えていますが、その前
   にまずここで読者の皆さんがどのように思われたか知りたく、このMMの
   趣旨とはまるで違うことを承知で書いてみたのです。申し訳ありません。
   何か思うところがあればメールをくだされば有難いです。
                          (文責 S・多賀)

   ※多賀さんの記事に、長年障害児教育に携わっていたスタッフの1人から
    感想が寄せられました。以下に編集長の一存で掲載させていただきます。

   多賀さんへ
    感想はここに書ききれないくらいあります!

    私が教員採用試験に受かって、東京で面接を受けたときのこと。
    普通学級・障害児学級・養護学級の3つから希望を聞かれました。
    もちろん普通学級の免許しか持っていません。

    そのときの面接官のことばを良く覚えています。
    「障害児学級で3年我慢したら普通学級の教員にしてあげます」
    教育に携わる人の感覚がこれか~!と衝撃でした。

    「どこでもいいです」というと障害児学級に配属されました。
    その後25年学校は変わりましたがずっと障害児学級。
    子どもたちとけっこう、うまがあって(?)楽しかったのですが、
    教育行政や学校という組織や体制にはずっと疑問がありました。
    お嬢さんの気持ち、よくわかります。(わかるような気がします)

運動会になぜ徒競走がないか。

この時期、小中学校は運動会の花盛りのようですね。聞くところによると、もうだいぶ前から運動会では「50m競争」など順位がつくプログラムを組まない学校が増えているらしいですね。理由は「児童にムダな競争をさせない」「順位をつけることによって差別やイジメなどが起こりやすくなる」などなどその他もっともらしい理由を沢山聞いたことがあります。
が、今年から小学校の教諭になった娘から、それはまるで違う理由からではなかったかと思わせる話を聞いた。
娘の学校ではまだ徒競走をやっている(私はそれはいいことだと思う)。先生の中から「写真班」というのが作られ、ゴールで写真を撮るという仕事があるのだそうだ。「記念」のためではなく「判定」のためにだそうだ!!しかしこれがなかなか難しい。正面から撮ったのでは微妙な差が判定できない。かといってゴールラインの横から撮っても、人物が重なって判定不能な写真となることも多い。どうするのがいいのかは娘から聞かなかったが、ともかく真剣に写真班は仕事をしなければならない。何故そんなことをするかというと、着順にPTAがウルサイからだという(-"-) 中には着順だけでなく、「コース取り」にまで文句をつける親もいるらしい。「ウチの子が一番外側なんて絶対おかしい、一体どういう基準でウチの子を外側にしたのか教えなさい。もっと普段からウチの子を見ていれば真ん中のコースがふさわしいと分かったはずです!」などなどとイチャモンを付ける親が必ずいるのだそうだ。まして着順を誤って判定された親は黙っていない。そこで写真判定にもつれ込むのだそうだが・・・。一体どういう親の育ち方をしたのだろうか(*_*; 運動会は着順が大切なのでなく、各自が持っている力を出して何かに挑戦する、その一生懸命さを称える場であるはず。おそらく娘の働く学校は校長先生が毅然としてそのことを親に伝えようとしているから徒競走を続けているのだろう。しかし、親のクレームを極力避けようとする学校は徒競走を運動会から外すことになるでしょう。
そういったいきさつから、最近の運動会には徒競走がないという流れになったやもしれぬ、という視点を、娘の話から得た次第。
実際は知らぬが、学校に勤めるということは、生徒と仲間の教師と、PTAを相手にしなければならず大変なことだ。

庭にくる鳥

一カ月ほど前に鳥のエサ台を買った。8月のことです。鳥や自然に詳しい人にきいたら、夏でもエサ台を庭に置いてなんら問題はないということだった。私が以前聞いた話では、野鳥のための庭のエサ台は冬だけにすべきである、ということだった。様々な理由があるようだが、最近は夏でもOKという理論になったようなのです。
難しいことはさておいて、私の信頼する方がそういうので、遠慮なく庭にエサ台を置くことにした。しかしそう簡単に鳥は来てくれない。夏はわざわざエサ台に来なくても自然界にはエサは豊富なのですね。待つこと数週間。数日前に、やっと来てくれた!♪ しかし鳥は警戒心が強い。見ていると、チョコンとエサ台に来てはすぐにサっと飛び立っていく。辺りをキョロキョロしてはまたやってきて、すぐに去っていく。まるでエサ台が何かのおとりか罠ではないかと心配しているようです。エサのヒマワリの種を覗いてはすぐに飛び去り、近くの木の葉陰に隠れ様子をみている。やがてまたヒマワリの種の誘惑にまけて近づくが、ついばむかと見せてさっと逃げていく。その様子がとても面白い。そんな攻防(といっても彼の一人相撲だが)が二日ばかり続いて、ついに今日は数羽の仲間を連れてきてくれて、おとなしくエサをついばみ始めた。やった!私は一人で快哉を叫びました(^^)v ついに彼らに認知されたのであります♪ 嬉しいなあ。今日だけでもシジュウカラ、ホオジロ、ヤマガラ、などなど。来るときは来るんだなあ。彼らの間にはどういう連絡網があるのだろうか。明日は水浴び用の水も替えなくちゃ。
という老後生活の楽しみが一つ増えたのです。で、今日は何故か40年ほど前に買った朝永振一郎の「庭にくる鳥」という本のことを思い出した。本棚を探したらあったあった。1965年にノーベル物理学賞を受賞した博士の随筆集である。私が26歳の頃買った本だが、奥付や著者略歴などから判断すると、朝永振一郎がこの本を書いた歳がたぶん丁度今の私と同じ60代後半と思われ、ちょっと感慨深い。朝永博士と自分とを比べるのもおこがましいが、ヒトはこのくらいの歳になると、それまであまり興味がなかった自然界のことどもに、心をふるわせるようになるらしい。そろそろ自然に帰る準備か?
朝永博士が面白いのは、エサ台の上に残されたフンを集めては保存し、4月ごろ鉢にまく、というのである。そうすると入梅の頃からいろいろなものが芽が出てくるらしい。双葉のころは何の芽かわからないが、本葉がでるとおよその見当がつく。じっくり秋までまつと、ツタ、アオキ、ナツメ、オモト、ツルバラ、などなどと分かるので、楽しみである、というのだ。いや~さすが学者さんだ。観察することに命をかけている(?)。
私はそこまで気が長くないので、フンを鉢にまきはしないが、老後の楽しみとしては、庭にくる鳥とエサの関係、および種の違う鳥たちとの関係性をじっくり調べてみるのも面白いと思っている。ネットで調べればミカンを置くと何がきて、リンゴを置くと何が来る、メジロは自分より大きい鳥たちにもまけずエサを食べにくるなんてことは出ている。が、私の長年の経験(ホタルの観察を10年以上継続したことがある)では、生き物には個体のクセや地域性などがあり、必ずしも教科書通りには行動しないものだと理解しているので、わが庭にくる鳥は、一体どんな教科書に書いていない行動をとってくれるかが、楽しみなのであります。ときどき日記に書きますね。
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かみさんの誕生日

娘からラインがあって「お母さん、誕生日おめでと~」だって。え?そうか、今日はかみさんの誕生日か!と知った次第(^^; 娘からのラインで妻の誕生日を思い出すようでは夫失格だが、ま、毎年そんな感じだから特にどうってことはアリマセン。が、「じゃあ」ということで、夕食は外に食べにでかけた。
といっても特別なレストランという訳ではなく、いつも普段食べに行っているフツーの田舎の食堂です。こういう所の方が、メニューの中身は知っているし、店の雰囲気は知っているし、気がおけなくて話しが弾む。

かみさんのご両親が思いがけなく早く彼岸へ旅立ってしまったことによって、予定より早くペンションを閉じることになったが、それが今となっては全ての事柄が順調に回り始めた要因になっていることに気づいたかみさんは、「目に見えぬ力の存在」あるいは「天の采配」といったものにとても感謝し、驚いている。そういう力がかみさんを、あるいは私たちを包んでくれているような気配を感じてさえいる。思ってもいなかったことが起きてそれが良い結果に繋がっていったり、思っていたことが現実になったり、という幾つかのその証拠(?)はあるのだが、それは書かないことにしよう。
八ヶ岳に青龍が住んでいることは25年前から感じている私たち。ペンションを閉じても八ヶ岳を舞台にあれこれ活動していこうと考えている私たちに、青龍も力を貸してくれているに違いない。
ペンションを始める前から「ペンションを卒業したらやろう」と決めていたことを、既に始めているかみさんの動きに、私はとても興味があるし、応援もしている。きっと素晴らしい結果をもたらすに違いない。これからの人生を与生(余生ではなく)と考えている私たちは、せっかく与えられた人生をどうやって楽しみ、社会とも関わっていけるかを、わくわくしながら考え実行していこうと、そんな話で盛り上がったかみさん○歳の誕生日の夕食でした。

40年前の今日

今朝、「オレゴン州ユージーンへ向かうAMTRAKのバスの中で一人の日本人と出会った。話をすると私と同じ目的でバスに乗っていることが分かった!と、40年前の今日の日記に書いてある」と興奮して私にしゃべりかける一本の電話があった。一方的に私の事を昔のあだ名で呼びかけ、しきりに「誰だか分からない?覚えてない?この声?」と言う。最初の2秒戸惑ったが、すぐに思い出した(^^)v
大久保君だ! 確かに40年前の初対面はアメリカ横断バスの中だった。
40年前の5月15日、私はアメリカ建国200年を記念したアメリカ商務省主催の「アメリカ大陸横断自転車ツアー」に参加するべく、それまでいたフロリダのマイアミからAMTRAKに乗ってオレゴン州ユージーンに向かっていたのだった。そしてそのバスの中で私も一人の日本人と出会った。それが大久保君なのだった。

それから約3か月、世界中から集まったツアー参加者が10人ずつの小さなグループに分けられ(幸運にも大久保君と私は同じグループだった)、約6.000kmのアメリカ大陸横断自転車珍道中を繰り広げたのだが、その話はまた別の機会に。

68歳になった彼はこの時期になると時々当時の日記を出しては、その後の人生の羅針盤ともなった「アメリカ横断自転車旅行」のことを思い出し、自分の今の人生を「あ~あの時いろいろ経験させてもらったおかげだなあ」と懐かしむのだそうだ。何年かぶりに今朝もまた日記をひっくり返していたら、私の名前が出てきて、矢も楯もたまらず電話をかけてきて下さった、ということだった。嬉しいじゃありませんか。 私も2秒後には40年前に戻って、当時の様々な事柄が懐かしく思い出されてき、お互いに長話をしてしまい、現在の健康を喜び合った(歳だなぁ)(^^♪

私たちが通ったあのルートはその後、建国200年を記念した「トランスアメリカ」として残され、「ルート76」という愛称までつけられて、自転車ファンたちに愛されているのだという。「76」というのは、そのツアーが行われたのが「1976」だから(だと想像される)。

古き良き「ルート66」は今や廃道になっているそうだが、この「ルート76」は愛されているというからとても嬉しい。歳をとったら(って、もうとっているのか?)行きたい候補地がまた一つ増えてしまった。

大久保君、素敵な電話をありがとう。声というのは歳をとらないものだね、あのしゃべり方、あの笑い方は全く28歳の大久保君だったよ。

写真はどなたかのネットから拝借しました。噂通り標識の一番下に「76」というのがある(^^)v
トランスあめりか


たまたま今日私は、50歳を超えて新しいバスに乗り、次の世界を切り開こうとしている勇気ある女性の大応援会(?)のような会に行くところでした。何歳になってもバスには乗ってみるべきだと、彼女を見て思わざるを得ません。私もなんどかバスを乗り換え乗り継ぎしてここまで来ましたが、私の乗ったバスはいわばローカル路線(^^; 乗り間違えてもなんとかなります。しかし彼女の乗るバスは言わば、しかるべきターミナルできちんと乗車手続きをして、高速道路経由で目的地を目指すバスですから、乗り間違えたら大事になりかねません。勇気ある彼女に大拍手です。
思いがけず今朝、このような電話を受けたということは、彼女の出発を応援している私にとってはとても朗報であると受け取ることが出来ました。神様の啓示です♪ ほんとうに元気づけられた朝でした。ではこれから「大応援会」に行ってきます。