存在しなかった騎馬隊

大河ドラマを見ている方々が風林火山館そのほかの史跡を見に来られた。あちこち案内してくれとおっしゃる。待ってました♪ あれこれ資料を引っ張り出して今日に備えご案内。一夜漬けは昔から得意だった
風林火山館ではいつもボランティアガイドさんたちの話を聞いているのでそっくり受け売りして喜ばれたスミマセン
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提灯が赤いほうずきのようだ。
新府城跡やら勘助の墓やら谷戸城跡やら、比較的近場の史跡でも充分説明のしがいがある場所ばかり。大いに喋るが、一夜漬けというのは想定外の質問には弱いので喋りっぱなしチカレタ~
勘助の墓では丁度菩提寺の住職さんが経をあげに来ていた。
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一緒に墓参する。

さて、一夜漬けで仕入れて自分でも「ほ~、へ~」と思い、お客様にも「えええっ」と驚かれたウンチクを一つ。
武田軍は騎馬隊が有名だが、それは「歴史のウソ」であるということ。当時の馬は現在のポニークラスの体格だったので重い鎧兜を着た武者を乗せて機敏に動き回れるわけがない。馬の体格については掘り出された骨格や各資料に記載された事柄から分かっている事実。
騎馬隊というが「隊」として訓練された戦闘員の役割を担う武士達が実質的にいなかったことや「訓練」した事実がどの資料にも見つからない。さらに、実際の戦闘の場面では下馬して戦ったことが多くの資料に見られる。それを「騎馬軍団」と呼べるのだろうか。
そもそも馬を使ったいくさと言うなら源平の昔からあったことで、個々の乗馬に卓越した武人が主に「移動用」に使用していた。武田がそれを「隊」として組織し「騎馬兵」に仕上げたという主張を裏付ける資料は今のところほぼ皆無のようだ。
掘りだされた馬の骨格を調べると異常に足が丈夫だった。つまり山がちな甲斐の国で「荷駄」の移送に馬達が有効に活用されたことは十分考えられことで、その意味では「武田は馬を有効に使った」と言える。が、それを「騎馬軍団」と呼ぶのは後世の尾ひれの類であろう、というのが最近の学説であるというオハナシ。
いやはや、勉強はしてみるものだ。なかなか面白い説を見付けて「さも見てきたように」話したら大いに喜ばれてしまった♪
明日はどんな話をしようかなあ、これから本を飛ばし読みしつつネタを仕入れなくっちゃ♪
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