FC2ブログ

古墳の形の謎に迫る!

長野県望月というところに出かけた。郷土資料館があったので入ってみた。そこで見た「縄文時代の住居跡」というのを見て、すぐにピンと来るものがあった。正式には「柄鏡形敷石住居跡」という難しい名前がついている住居跡だ。丸鏡に柄がついているような形で、床に敷石があることからこんな名前がついた。百聞は一見に如かず。その写真をちょっと見ていただきましょう。
kofun3.jpg
群馬や山梨など関東一円で発見されているらしい。
こんな図面もあります
kofunn2.jpg
ね、確かに柄のついた鏡の形をしていますでしょ。
木組みで壁と屋根をつくり茅で葺いて住んでいたそうです。
柄にあたる部分が出入り口(玄関)だったと考えられています。
中は敷石があり、囲炉裏があり、なかなかの文化生活♪
良い生活をしていたんだなあと眺めていたが突然あ、そうかとひらめきました。皆さんもきっと同じコトを感じたと思いますが、これって古墳の形に似ていませんか?
kofun5.jpg
これは前方後円墳
kofunn4.jpg
これは前方後方墳。
ウィキで調べたら、少なくとも前方後円墳は日本独自の古墳の形らしい。そして古墳そのものの起源は分かっていないということだ。もちろん死者を葬る場所であることは分かっているが、なぜこのような形になったのかは、まだ調べがついていないそうだ・・。
ホントだろうか。だってこの住居跡を見れば一目瞭然じゃありませんか??
墓は死者の住むところ。だったら現世で住んでいた住居と同じような形の所に葬るのが自然です。
どうみたってこの柄鏡敷石住居の形をそのまま古墳に利用したとしか思えませんが??
資料館のヒトにその説を述べたら「ああ~、なるほど・・。そうおっしゃったのは貴方が初めてです」と言ってくれたが、なんだかそれきりで、あまり関心がないようだった
ところで古墳を良く見ると「前方後円墳」となっていて、つまり「円」が後ろで「方」が前なのです。前方後方墳も、柄のようになっている「方」が前なのです。知ってましたか?前方後円墳とはいうものの、漠然と「円の方が前」と感じていませんでしたか? 私は学生時代ずっとそう信じていました。
ではどうして柄の方が前かというと、推測ですが、縄文時代の住居では、そこが出入り口(玄関)だったから、と思うのです。
古墳の形の謎に少し迫ったゾ、と一人合点して資料館を出ても興奮冷めやらず。あれこれ思案しながら歩いて、傘を忘れて取りに戻ったのは、小雨の中を20分ほど歩いた後だった。資料館のヒトに笑われた。

うれしい発見

今日の新聞は各紙とも下記のニュースで湧いている。
「5000年前に大豆栽培」山梨県北杜市の「酒呑場遺跡」から出土した5000年前の土器に栽培種の大豆の痕跡が発見されたというものだ。これには驚いた。関心がなければ「ふ~ん」というニュースかもしれないが、「酒呑場遺跡」のことを少しでも知っている人達にとっては世紀の大発見と捉えられているだろう。私もその一人だ。次には「胡麻」の栽培痕も発見されるだろう、とつい勇み足で予言してしまう。そのくらい浮き足立つニュースだった。
我家から車で15分ほどの所にあるこの遺跡は、山梨県内では最大となる縄文遺跡であり、シュリーマン的な物語が秘められた遺跡でも有ることで知られている。シュリーマンとはご存知のように、ギリシア神話を信じてトロイの遺跡を発掘した人物である。
「酒呑場」という名前は昔からそう言い伝えられていた北杜市長坂町のある場所のことで、つい最近までは「田畑の仕事をするたびに瓦けなどがでてきたものだ」と地元の人は言う。
そこにはこんな昔話が伝えられてきた。
「昔、白い牛に乗った神様が、長坂上条の入沢あたりから穂見山(現在の農業試験所のあたり)に、稲の育ち具合を見回りにやってきた。そのあたりの稲作があまりにもすばらしかったので、神様は村人を招いて酒を酌み交わし舞を舞い、ひと時を楽しく過ごした」というものだ。
発掘調査が行なわれた当時、なんと土器が出てくる出てくる、しかもそのほとんどが祭祀などに使われる「酒器」ばかりだった。「酒呑場」という言い伝えの残る地域から本当に「酒器」ばかりが出土してしまったので、これには調査隊も驚いたという。
昔話は続く。
「陽が西に傾いたので、神様は再び牛にまたがってでかけた。牛が西新井の豆畑に入っていくと豆のつるが牛の角や足にまとわりついて動けなくなってしまった」
今回の「豆の発見」を予言したかの如く、昔話の中では「豆」を栽培していた。イヤその前に「稲作」も行なわれていたことが語られている。私は今日の新聞で「栽培種の豆が発見された」と報じられたことに驚きと喜びを感じたのだった。これはもう完全に伝えられてきた「昔話」の通りのことが発掘されているではないか。
昔話はさらに続く
「動けなくなっている牛の周囲で、丁度豆のさやがパチパチと音をたててはじけて飛び散った。牛は驚き狂い、つるをひきはなしてまっしぐらに走り出した。乗っていた神様は近くの胡麻畑に放り出され、胡麻の切り株で足に怪我をし、その上目まで突いてしまったので目が見えなくなってしまい、どこへも行くことが出来ず、この地にとどまることになった」
私が「次は胡麻の栽培痕が発見されるだろう」と予言したのはこのくだりに拠っている。まさに「ゴマ粒」のように小さいものなので発見は困難かもしれないが調査チームには是非がんばって欲しいものだ。
この縄文中期の遺跡は1944年に調査が開始され、いまだに継続中という県内最大級の遺跡である。6000~4000年前まで約2000年もの間、長坂の地で繰り広げられた宴。その太古の歴史はいまだ多くの謎と宝を秘め、眠っている。
なを
牛に振り落とされてこの地にとどまった神様を村人たちは氏神様として祀った。それが現在の穂見神社である。「穂見」という名前も昔話に由来している。また、このあたりでは現在でも「胡麻」の代蒔きはしないということだ。どこまでも奥深い昔話である。
前世は縄文時代に生きていたと何故か信じている私にとって、縄文時代が脚光を浴び、「考えられていたよりはるかに進んだ文化を持っていた」と知られることは嬉しいことだ。
現在の私の「酒好き」は、もしかしたらあの時神様に招かれた村人の一人だったのかもしれない、なんて想像してはニヤニヤしている。
ともあれ、このニュースの続編が待ち遠しい。
・参考資料「長坂町教育委員会刊 長坂のむかし話し」「長坂郷土資料館HP]