狛犬の話 その後

先日の日記で「狛犬は阿吽という一対の像だが、どちらも雌である」と主張するお客様がいらしゃった、と書いた。「それが証拠に私が今までみてきた狛犬に雄の象徴であるアレがついているものは3体しかなかった」とその人は言った。いやなかなか意表をついた面白い説に思わずうなり(その説が正しいかどうかは別問題)、私は勇んでその説を我が歩こう会のお歴々にも披露したのだった。さてそれからというものは、我が会の男女は皆、狛犬をみると思わず股間を覗き込むという、大変あやしい方々となってしまった。
で、本日。
八ケ岳歩こう会では身延線小井川駅から市川本町まで歩くウオーキング例会を実施した。歩き始めてほどなく八幡穂見神社という所に着くや、前方から「多賀さん、あったあった!」という大きな声が伝わり、ナニゴトゾと急げば、「狛犬の股間にアレがついてます」と大騒ぎしているのだった(^_^.) おいおい、大騒ぎはやめなさい、ここは神聖な境内であるゾ((+_+)) ま、しかし、ドレドレと覗き込むとなるほどまごうかたなき男性の象徴が股間に鎮座ましましているではありませんか。
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(こまいぬさん、失礼)
で、相方はというとこんな感じ
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なにもついておりません。(シツレイ)
なんだ、あっけなく彼の人の説は崩れたなあと思いきや、帰ってからネットで調べたらなかなか興味深いことが分かったのです。
その1)ある方が530体ほどの狛犬について調べたら約9割が性別不明であった。(やっぱりね)
その2)狛犬は性別を超越した神性を持つものである(と、ほとんどの方は書いている)
その3)股間になんにもついてないからといって雌である証拠にはならない
その4)「雌である」と判別するのは主に子獅子に授乳しているらしき形体で判断される。
その5)なんと阿吽一対が2体とも「雄」である場合が23件あった!
その6)どうもはっきりとした「雌の象徴」を持つ狛犬はいないらしい?
こうなると何故神性獣の股間に雄の象徴をつけるのか調べたくなりますが、今日はこれまで。
興味のある方はご自分でお調べください。
なを、ものはついでに調べていたら、我が故郷の藤沢は江の島神社の狛犬に、はっきりとした雌の象徴をもつ狛犬がいることが分かったのです!!。なんだ、案外身近に特殊な狛犬がいるじゃないか、と感嘆。画像もついていたが、特に秘す。我が狛犬研究の今後の行方は如何に・・・。
今日は大変愉快なウオーキングでありました。
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多賀

国産み神話というものがあります。イザナミとイザナギが天の橋から矛で「混沌」をかき混ぜ、矛の先から滴り落ちたものがかたまって島となるのです。最初に八つの島を生んだので日本の国は「大八島国(大八洲国)」とも呼ばれますが、中でも一番最初に生んだ島が淡路島であります。
八つの島を生み終えたイザナミ、イザナギは淡路島の多賀という場所に鎮座するのです。現在「淡路一宮」として立派な「いざなぎ神宮」が鎮座ましましておりますが、その地名から「多賀明神」とも「多賀宮」とも呼ばれて親しまれております。
さて、イザナミ、イザナギは「国」を産んだ後「神」を産みます。次々に神を産んで、一番最後に、天照大神、月読命、須佐之男命を産みます。
ということは・・・「多賀宮」は、天照大神を祀る「伊勢神宮」や須佐之男命を祀る「出雲大社」などよりも古いということになります。「お伊勢参らばお多賀に参れ、お伊勢お多賀の子でござる」と室町時代に既に謡われていました。現に滋賀県の多賀大社は「伊勢神宮の御親神様である」とされています。現在の天皇家につながる「ウガヤフキアエズノミコト=神武天皇」は天照大神からさらに6代(?)くらい後に出現するのだから、「多賀」は天皇家より古い日本人の祖先かもしれない。
なんてことをね、いつも思っているのですよ。たまたま先日来たお客さんとそんな話になったので、本日書きとめておきました。淡路島に行くことと、滋賀県の多賀大社に行くことがずっと前からの自分自身の宿題なんですがネ、まだその機会がない。

新説・万治の石仏

万治の石仏といえば岡本太郎が紹介して以来人気となった石仏で、今では諏訪の観光名所の一つとなっています。この石仏にまつわる謎が多すぎるのです。興味ある方は検索すればたちどころに幾つかの紹介ページが出てきます。お馴染みの説もへ~よく調べたなという説も多い。
万治の石仏はその石に「万治三年十一月一日」と刻まれていることから命名されました。万治三年とは西暦1660です。また、石には「願主 明誉浄光 心誉廣春」と刻銘もされています。この2人は誰だったのか、というのが謎の一つです。僧籍にも見当たらずどこにも記録がない。長い苦労の果てに「宮島潤子」という方がこの2人が誰なのか解き明かしました。それによると、尊敬する師の50回忌(万治三年)に明誉、心誉という無名の2人が作ったのだろう、という結論をだされました。しかし、この石仏の頭部が「日本の石仏」にしては相当違和感のある事実に触れておりません。この石仏の表情こそ、謎の最大の焦点なのです。
石仏の顔をよ~くごらん下さい。この石仏は阿弥陀様とされておりますが、一体この顔のどこが阿弥陀様なのでしょうか。私には思慮深い西洋人の顔立ちのように思われてなりません。
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私は「万治の石仏の謎」に「万治の石仏は隠れキリシタンが作った」という新説を掲げて、論議に参戦してみようと思うのです。
といっても、これは私が思いついた新説ではありません。諏訪文学という会誌に掲載された文章をたまたま見せてくださった方がおり、大いに感銘して私も同意しただけの話です。まだ著者の同意も得ていないので詳しい紹介は避けますが、触発されて私なりに調べたところ、飯田城主が京極氏だったころ(1600年代前後)高遠はキリシタンの拠点だったということが分かりました。この石仏は高遠の石工が作ったとされていることから、キリシタンの石工が作ったものとしても不思議はありません。著者によると明誉浄光のクリスチャンネームまで調べ上げていますが、出典が不明なので要確認です。石仏にはキリシタンものとでも呼ぶべき一群があります。俗に子安観音などという「子供を抱いた観音様」がそうです。全国各地に見られますがこれは明らかにマリア信仰であるとされています。キリシタンに詳しい石工が全国に散らばって従来の石仏の姿から見ると異形な石仏を作り始めました。中には、馬頭観世音で頭部が3つもあるようなのは「三位一体」を表現している、なんていう説もありますがこれは眉唾と見て慎重に検討しなくてはいけませんが・・・。
ところであらためて万治の石仏の頭部に注目してみると、頭に被っている帽子のようなものがどうもカトリックの神父さんが被っているもののように見えませんか?
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う~ん、やっぱり諏訪は不思議だらけだ。
この項続きます。

戦争を放棄した国に自衛隊があることについて

恥ずかしながら聞けなかったことが、こっそり本を読んで分かりました(*^^)v
それは「どうして自衛隊が日本にあるのでせう?」「自衛隊誕生の経緯は?」という長年の疑問です。日本は憲法で戦争を放棄していますが、自衛の為の軍備ならまぁ、あっても仕方がないのかなぁ・・
という程度の認識でありました。が、まるで違ってました。
マッカーサーは戦後の日本を永世中立国スイスにならって「アジアのスイス」にしたい、という理想を持っていたのだそうです。なので戦争放棄を謳わせた現在の日本国憲法を作りました。当然自衛隊のようなものでさえ持つことは想定されていませんでした。ところが、戦後、ソ連の後押しをうけて中華人民共和国が誕生してしまったことで、事情はおかしなことになってきたのです。
急速にチカラをつけてきた中国の台頭はマッカーサーの誤算でした。「このままではアジアは共産党勢力に呑まれてしまう」と恐れ「日本を防波堤にしなければ」と考え、なんと今度は日本に軍備をするよう要請してきたのです・・・!
アメリカという国は自国の主張を押しつける為ならまったく身勝手な要求をしてくる国ですね。北朝鮮と同じじゃありませんか。そこで「何を言っとるんだ」とアメリカを一喝したのが白洲次郎です。「戦争を放棄せよ、と言ったのはアメリカだ。そのアメリカが軍隊を持てとわが国に言えるスジがどこにあるっ」と怒ったわけです。当然ですね。「日本の再軍備は貴国の役目である」と言い放つダレス国務省顧問に「責任は持てません、そんなことをしたら国民は国家を認めないでしょう。日本中が赤に染まりますよ」と言ってダレスを沈黙させたそうだ。
しかしその後の歴史は、ご存知のように、朝鮮戦争勃発を契機としてGHQは日本政府に警察予備隊を作らせました。これが後に自衛隊となるのです。アメリカは憲法公布直後から一貫して日本に軍隊を持たせたいと考えを変えています。しかし自ら戦争放棄の憲法を作ってしまった為、大変苦労(?)しております。
今、これを「アメリカから押し付けられた憲法だから」という理屈で改正(?)しようとする動きがあります。アメリカから押し付けられた憲法を捨てて、よりアメリカが喜ぶような憲法を作ろうとしているのです。大丈夫か日本!?
自衛隊は自分の国を守る組織として発足したのではなく、共産勢力からアジアを守るための(守るためなら国外にでも出て行く)組織として作られたのでした。世界情勢の変化にともない、自衛隊はもっともっと国外に出るべきだ、とアメリカは考えています。
こんな時白洲次郎が生きていたらなんというだろうか・・・。以上、昨晩ほとんど徹夜で「白洲次郎の日本国憲法 鶴見紘著」という本を読んで分かったこと、考えたことでした。今ブームの白洲次郎ですが、たまにはブームに便乗してみたら、なかなか面白い発見がありました。

古墳の形の謎に迫る!

長野県望月というところに出かけた。郷土資料館があったので入ってみた。そこで見た「縄文時代の住居跡」というのを見て、すぐにピンと来るものがあった。正式には「柄鏡形敷石住居跡」という難しい名前がついている住居跡だ。丸鏡に柄がついているような形で、床に敷石があることからこんな名前がついた。百聞は一見に如かず。その写真をちょっと見ていただきましょう。
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群馬や山梨など関東一円で発見されているらしい。
こんな図面もあります
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ね、確かに柄のついた鏡の形をしていますでしょ。
木組みで壁と屋根をつくり茅で葺いて住んでいたそうです。
柄にあたる部分が出入り口(玄関)だったと考えられています。
中は敷石があり、囲炉裏があり、なかなかの文化生活♪
良い生活をしていたんだなあと眺めていたが突然あ、そうかとひらめきました。皆さんもきっと同じコトを感じたと思いますが、これって古墳の形に似ていませんか?
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これは前方後円墳
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これは前方後方墳。
ウィキで調べたら、少なくとも前方後円墳は日本独自の古墳の形らしい。そして古墳そのものの起源は分かっていないということだ。もちろん死者を葬る場所であることは分かっているが、なぜこのような形になったのかは、まだ調べがついていないそうだ・・。
ホントだろうか。だってこの住居跡を見れば一目瞭然じゃありませんか??
墓は死者の住むところ。だったら現世で住んでいた住居と同じような形の所に葬るのが自然です。
どうみたってこの柄鏡敷石住居の形をそのまま古墳に利用したとしか思えませんが??
資料館のヒトにその説を述べたら「ああ~、なるほど・・。そうおっしゃったのは貴方が初めてです」と言ってくれたが、なんだかそれきりで、あまり関心がないようだった
ところで古墳を良く見ると「前方後円墳」となっていて、つまり「円」が後ろで「方」が前なのです。前方後方墳も、柄のようになっている「方」が前なのです。知ってましたか?前方後円墳とはいうものの、漠然と「円の方が前」と感じていませんでしたか? 私は学生時代ずっとそう信じていました。
ではどうして柄の方が前かというと、推測ですが、縄文時代の住居では、そこが出入り口(玄関)だったから、と思うのです。
古墳の形の謎に少し迫ったゾ、と一人合点して資料館を出ても興奮冷めやらず。あれこれ思案しながら歩いて、傘を忘れて取りに戻ったのは、小雨の中を20分ほど歩いた後だった。資料館のヒトに笑われた。

うれしい発見

今日の新聞は各紙とも下記のニュースで湧いている。
「5000年前に大豆栽培」山梨県北杜市の「酒呑場遺跡」から出土した5000年前の土器に栽培種の大豆の痕跡が発見されたというものだ。これには驚いた。関心がなければ「ふ~ん」というニュースかもしれないが、「酒呑場遺跡」のことを少しでも知っている人達にとっては世紀の大発見と捉えられているだろう。私もその一人だ。次には「胡麻」の栽培痕も発見されるだろう、とつい勇み足で予言してしまう。そのくらい浮き足立つニュースだった。
我家から車で15分ほどの所にあるこの遺跡は、山梨県内では最大となる縄文遺跡であり、シュリーマン的な物語が秘められた遺跡でも有ることで知られている。シュリーマンとはご存知のように、ギリシア神話を信じてトロイの遺跡を発掘した人物である。
「酒呑場」という名前は昔からそう言い伝えられていた北杜市長坂町のある場所のことで、つい最近までは「田畑の仕事をするたびに瓦けなどがでてきたものだ」と地元の人は言う。
そこにはこんな昔話が伝えられてきた。
「昔、白い牛に乗った神様が、長坂上条の入沢あたりから穂見山(現在の農業試験所のあたり)に、稲の育ち具合を見回りにやってきた。そのあたりの稲作があまりにもすばらしかったので、神様は村人を招いて酒を酌み交わし舞を舞い、ひと時を楽しく過ごした」というものだ。
発掘調査が行なわれた当時、なんと土器が出てくる出てくる、しかもそのほとんどが祭祀などに使われる「酒器」ばかりだった。「酒呑場」という言い伝えの残る地域から本当に「酒器」ばかりが出土してしまったので、これには調査隊も驚いたという。
昔話は続く。
「陽が西に傾いたので、神様は再び牛にまたがってでかけた。牛が西新井の豆畑に入っていくと豆のつるが牛の角や足にまとわりついて動けなくなってしまった」
今回の「豆の発見」を予言したかの如く、昔話の中では「豆」を栽培していた。イヤその前に「稲作」も行なわれていたことが語られている。私は今日の新聞で「栽培種の豆が発見された」と報じられたことに驚きと喜びを感じたのだった。これはもう完全に伝えられてきた「昔話」の通りのことが発掘されているではないか。
昔話はさらに続く
「動けなくなっている牛の周囲で、丁度豆のさやがパチパチと音をたててはじけて飛び散った。牛は驚き狂い、つるをひきはなしてまっしぐらに走り出した。乗っていた神様は近くの胡麻畑に放り出され、胡麻の切り株で足に怪我をし、その上目まで突いてしまったので目が見えなくなってしまい、どこへも行くことが出来ず、この地にとどまることになった」
私が「次は胡麻の栽培痕が発見されるだろう」と予言したのはこのくだりに拠っている。まさに「ゴマ粒」のように小さいものなので発見は困難かもしれないが調査チームには是非がんばって欲しいものだ。
この縄文中期の遺跡は1944年に調査が開始され、いまだに継続中という県内最大級の遺跡である。6000~4000年前まで約2000年もの間、長坂の地で繰り広げられた宴。その太古の歴史はいまだ多くの謎と宝を秘め、眠っている。
なを
牛に振り落とされてこの地にとどまった神様を村人たちは氏神様として祀った。それが現在の穂見神社である。「穂見」という名前も昔話に由来している。また、このあたりでは現在でも「胡麻」の代蒔きはしないということだ。どこまでも奥深い昔話である。
前世は縄文時代に生きていたと何故か信じている私にとって、縄文時代が脚光を浴び、「考えられていたよりはるかに進んだ文化を持っていた」と知られることは嬉しいことだ。
現在の私の「酒好き」は、もしかしたらあの時神様に招かれた村人の一人だったのかもしれない、なんて想像してはニヤニヤしている。
ともあれ、このニュースの続編が待ち遠しい。
・参考資料「長坂町教育委員会刊 長坂のむかし話し」「長坂郷土資料館HP]