八ヶ岳と賢治
■私の友人が現在進行形で行っている「八ヶ岳検定」で、山梨県歌と長野県歌(信濃の国)の歌詞に「八ヶ岳」は登場するか、という問題が出された。回答を先に書くと、なんと両方の県歌に「登場しない」のです! 理由は定かではないが、山梨県には富士山があり、長野県には無数に有名な山々があるから、八ヶ岳なんて出番がないのサ、ということらしい・・・???
おのれ作詞家よ今に見ておれ、私は次代の県歌がもし募集されるなら、誰もが歌詞に「八ヶ岳」を入れて応募したくなるような「八ヶ岳」にしてやるゾッとハギシリをしつつ唇を噛んだのでありました。
■本日届いた本をパラパラとめくっていたら「賢治は浅草オペラを見たか」ということを研究しているヒトの研究結果の途中経過報告のような記事が載っていた。賢治が浅草オペラを見たかどうかなんてどっちでもいいようなものだが、その研究者にとっては大問題なのです。どうしてかというと、その問題については「まだ誰もやっていない」からです。賢治については既にあらゆる方面からあらゆる研究がなされていて、あらたな視点で問題点を探すのは大変です。そこで彼は「賢治と浅草オペラ」という視点を見つけました。浅草オペラが賢治の書くものに影響があったとしたら彼は新発見をしたことになります。それは彼にとって「スゴイ」ことなのです。読者にとってはまぁどっちでもいいのですけどね・・・。読んで行くと、どうやら「賢治は浅草オペラをみたらしい」という傍証が沢山あげられて、「お~そうだったのか」と思わせる内容になっていました。資料調べが大変だったろうなぁと思わせ、彼を応援したくなりました。こういうのは研究者にとってはジグソーパズルを一つ一つ繋ぎ合わせるような仕事であり、読者にとっては推理小説を読み解くようなスリリングな味わいがあってなかなか面白いものです。
賢治には「あはれマドロス田谷力三は、ひとりセビラの床屋をうたひ」という詩があるそうだが、「トランクに一ぱいの原稿を持って」花巻に帰る大正10年の8月、「セビリアの理髪師」が浅草金竜館で上演されたそうである。だから何?と言われればそれまでだが、こういう発見をするのが研究者としては楽しいのですよ♪ 関東大震災が大正12年に起こって浅草の資料は全て焼け焦げてしまい、追跡調査は困難を極めているらしい。私はいつのまにか「ガンバレ研究者よ」とハラハラしつつ読んでいる一読者となっておりました。
■研究し尽くされたかに見えた問題に新しい視点で新しい問題を投げかけるというのはなかなかできることではありません。(と、ここで無理やり話を清里に持っていく)廃墟同然になってしまった清里をどういう視点から立ち直すか、というのは、学会の定説や通説に石を投げつけて波紋を起こすくらいの覚悟や度胸がないとできません。「八ヶ岳」も同じこと。県歌に必ずしも登場させる必要はありませんが、県歌に登場しても不自然でないくらいの「認知度」或いは「メジャーな山」にしてあげたいと、私は思うのであります。「賢治は八ヶ岳に来たか」なんて誰か研究してくれない? 「賢治が八ヶ岳に来た」と結論がでれば今より3%くらいは多くの観光客を呼ぶことはできルンだがなぁ(*^^)v
「甲州ではじめた時なんかね。はじめ僕が八ケ岳の麓の野原でやすんでたらう。曇った日でねえ。すると向ふの低い野原だけ不思議に一日、日が照ってね、ちらちらかげろふが上がってゐたんだ」という文章が「風野又三郎」の一節にあります。ここらへんがヒントなんですけど、怠惰な私ではその先へ研究が及びません。
おのれ作詞家よ今に見ておれ、私は次代の県歌がもし募集されるなら、誰もが歌詞に「八ヶ岳」を入れて応募したくなるような「八ヶ岳」にしてやるゾッとハギシリをしつつ唇を噛んだのでありました。
■本日届いた本をパラパラとめくっていたら「賢治は浅草オペラを見たか」ということを研究しているヒトの研究結果の途中経過報告のような記事が載っていた。賢治が浅草オペラを見たかどうかなんてどっちでもいいようなものだが、その研究者にとっては大問題なのです。どうしてかというと、その問題については「まだ誰もやっていない」からです。賢治については既にあらゆる方面からあらゆる研究がなされていて、あらたな視点で問題点を探すのは大変です。そこで彼は「賢治と浅草オペラ」という視点を見つけました。浅草オペラが賢治の書くものに影響があったとしたら彼は新発見をしたことになります。それは彼にとって「スゴイ」ことなのです。読者にとってはまぁどっちでもいいのですけどね・・・。読んで行くと、どうやら「賢治は浅草オペラをみたらしい」という傍証が沢山あげられて、「お~そうだったのか」と思わせる内容になっていました。資料調べが大変だったろうなぁと思わせ、彼を応援したくなりました。こういうのは研究者にとってはジグソーパズルを一つ一つ繋ぎ合わせるような仕事であり、読者にとっては推理小説を読み解くようなスリリングな味わいがあってなかなか面白いものです。
賢治には「あはれマドロス田谷力三は、ひとりセビラの床屋をうたひ」という詩があるそうだが、「トランクに一ぱいの原稿を持って」花巻に帰る大正10年の8月、「セビリアの理髪師」が浅草金竜館で上演されたそうである。だから何?と言われればそれまでだが、こういう発見をするのが研究者としては楽しいのですよ♪ 関東大震災が大正12年に起こって浅草の資料は全て焼け焦げてしまい、追跡調査は困難を極めているらしい。私はいつのまにか「ガンバレ研究者よ」とハラハラしつつ読んでいる一読者となっておりました。
■研究し尽くされたかに見えた問題に新しい視点で新しい問題を投げかけるというのはなかなかできることではありません。(と、ここで無理やり話を清里に持っていく)廃墟同然になってしまった清里をどういう視点から立ち直すか、というのは、学会の定説や通説に石を投げつけて波紋を起こすくらいの覚悟や度胸がないとできません。「八ヶ岳」も同じこと。県歌に必ずしも登場させる必要はありませんが、県歌に登場しても不自然でないくらいの「認知度」或いは「メジャーな山」にしてあげたいと、私は思うのであります。「賢治は八ヶ岳に来たか」なんて誰か研究してくれない? 「賢治が八ヶ岳に来た」と結論がでれば今より3%くらいは多くの観光客を呼ぶことはできルンだがなぁ(*^^)v
「甲州ではじめた時なんかね。はじめ僕が八ケ岳の麓の野原でやすんでたらう。曇った日でねえ。すると向ふの低い野原だけ不思議に一日、日が照ってね、ちらちらかげろふが上がってゐたんだ」という文章が「風野又三郎」の一節にあります。ここらへんがヒントなんですけど、怠惰な私ではその先へ研究が及びません。