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人生の通過儀礼について一考

【多賀屋の八ヶ岳与生】 

   ~「余生」ではなく「与生」を加齢にあ、華麗に(^^;楽しむ四方山話~

 ■今回は「人生の通過儀礼」について一考
     ~いったい何がどこを通過するのか~
   婚活事業に取り組んではや7年が過ぎました。日々「結婚したい独身者」
   達と共に悩み共に喜んでおります。人生には、誕生、入学、成人、入社
   結婚、出産、厄年、還暦、葬式等々沢山の「行事」が待ち受けています。
   1年の間にも、正月、節分、お盆、彼岸、七五三、大晦日等々の「行事」
   があり、様々な「思い」とともに私達はそれらの上を通過していきます。
   まさに喜びも悲しみも幾年月という訳ですが、日本人はそれらの「儀礼」
   を通過していくたびに、昨日とは違う今日を迎えた気分になることが出来
   る稀有な民族であるということが出来ると思います。
   
   例えば「大晦日」から「元旦」にかけての心の移り変わりを思い出して
   下さい。いつもの一晩が明けただけなのに、気分があらたまって新年を
   清々しく迎えることが出来るという不思議な技を、日本人は持っています。
   「成人式」も、単にいつもの1年が通過していくだけなのに、19歳から
   20歳になったというだけで、心構えも何か違ってきます。
   「結婚」は、その「式」を境にもう少し具体的・物理的に「昨日と今日と
   が違う日」となります。
   日本には「通過儀礼」という言葉がありますが、一体何がどこを通過して
   いくのでしょう。何故「通過」すると「気分もあらた」になるのでしょう。
   
   結論から書きますと、「人」が「結界」を通過するのです。「結界」を通過
   するので、気分もあらたになるのです。
   「結界」とはあの世とこの世の境です。夜と朝の境であり、昨日と今日の
   境であり、死と生の境であり、浄と不浄の境でもあります。すべての「儀
   式」や「儀礼」は「結界」という「時空」の中で行われるのです。

   「あの世」と「この世」の境にある「結界」という「時空」で行われる
   「儀式」を超えて、私たちは過去とは違う世界に行くのです。清々しさや
   あらたな決意がみなぎる源は、そこにあるのです。
   「結婚式」という通過儀礼を見てみましょう。花嫁は「死に装束」である
   「白」を着て現れ、それまでの世界から姿を消したことにされた後、お色
    直しで現世に再び生き返ります。昔、葬儀での死者は縁側から出す、と
    いうことが行われていましたが、花嫁も実家の縁側から出るのが仕来り
    だったそうです。「縁側」というのも日本家屋のなかでは「内と外」を
    分ける「結界」でした。
    現生に再び現れた時に花嫁はその地域社会に、その婚家に、迎え入れら
    れるのです。

    現代では様々な事情から「結婚式」のハードルが低くなっています。
    結婚はするけれど式は挙げない、という方々も増えてきました。
    あらゆる場面で「通過儀礼」なしで人生を歩む方々が増えていきます。
    葬式も散骨ですませ、墓参りも数年に一度ですませ、成人式や七五三も
    単にインスタ映えする写真を撮る「時空」へと変化していきました。
    社会の変化、価値の多様化、が叫ばれる時代ですから事の是非は問い
    ません。私自身も葬式は散骨を考えています・・・。

    さて    
    実は今年の暮れに娘が結婚式を挙げることになりました。私達親は何も
    言いませんでしたが、「式を挙げる」と娘から言ってきてくれたので、
    長年婚活事業に取り組んでいる私としても嬉しく思い、その日を今から
    清々しい思いで待ち望んでいる心境だと、告白をしなければなりません。
    インスタ映えなどしなくとも良いので、やはり人生を歩むうえで一つ一
    つの儀礼はきちんと通過して欲しいと願うのは親の欲目です。
    親の欲目ついでに、仰々しく「人生の通過儀礼」あれこれについて、考
    えてみたのが今回の原稿でした(^-^; 頭の中の独り言を文にしてみた、
    らこんな長文になってしまったのです、お許しを"(-""-)" 
    私自身にあと幾つの通過儀礼が残されているのか分かりませんが、そんな
    ことを考える歳になったのだなあと想ふ秋の夜でした。  
    ※結界や通過儀礼の考え方については小淵沢高福寺の水原和康道師の
    「民族塾」から引用させて頂きました。
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