敗戦記念日
■玉音を 理解せし者 前に出よ (白泉)
『作者の怒りは真っすぐに直属の上官達に向けられている。全ての下士官がそうではなかったにせよ、彼らの目に余る横暴ぶりはつとに伝えられているところだ。何かにつけて、横列に整列させては「前に出よ」である。
軍隊ばかりではなく、子供の学校でもこれを班長とやらがやっていた。前に出た者は殴られる。誰も出ないと、全員同罪でみなが殴られる。特攻志願も「前に出よ」だったと聞く。殴られはしないが、死なねばならぬ。いずれにしても、天皇陛下の名においての「前へ出よ」なのであった。
作者はそんな上官に向けて、天皇の威光を散々ふりかざしてきたお前らよ、ならば玉音放送も理解できたはずだろう。だったら今度は即刻お前らこそ「前に出よ」「出て説明してみやがれ」と啖呵を切っているのだ。
句は、怒りにぶるぶると震えている。(清水哲男)』
私の父は当時船舶設計技師だったので戦地には赴かず、軍艦の設計ばかりしていた。恐らくそのことを同胞、特に戦死していった友人達に負い目を感じて、あまり戦争のことを話したがらなかったのだろうと今では思う。
父が書いた簡単な自分史というものが手元にある。それによると「私は終戦という言葉が嫌いだ、敗戦と言って貰いたい。終戦とは為政者が自分達の失敗を糊塗する為に使った曖昧な言葉である」とあるが、これは8月15日が来ると毎年テレビに向かって怒って吐いていた言葉でもある。
「玉音を聞いて茫然自失し、しばらくは魂の抜け殻の様になり、仕事も何も出来なかった。もっとも、成すべき仕事もほとんどなかったのである」と心境を書いている。しかし生きるために成すべきことは山積みだった。翌日には疎開している妻を栃木まで迎えに行っている。
「切符が途中駅までしか手に入らなかったので、そこから約3里の道を歩いて向かった。やがて道は広い田んぼに出てその向こうに低い山並みが連なり、真っ赤な太陽がまさに沈もうとしていた。これが実に一幅の絵のように美しかった。私は強い感慨に打たれた。国破れて山河ありと。」
その年の夏長男が生まれ、すぐに次男が続き、昭和25年三男の私が生まれて、貧困の中、父母の新たな戦いが始まったのだが、不思議なコトに私の幼少時の記憶は全て幸福感に包まれているものばかりだ。戦争が終わった幸福感が父母を満たしていたのだろう。
戦争がなければ生まれて来るはずだった同時代の子供達の事を思うとき、私達は彼らの分まで生きてきただろうかと少し自省する。正解のない様々な感慨にふける今日である。
『作者の怒りは真っすぐに直属の上官達に向けられている。全ての下士官がそうではなかったにせよ、彼らの目に余る横暴ぶりはつとに伝えられているところだ。何かにつけて、横列に整列させては「前に出よ」である。
軍隊ばかりではなく、子供の学校でもこれを班長とやらがやっていた。前に出た者は殴られる。誰も出ないと、全員同罪でみなが殴られる。特攻志願も「前に出よ」だったと聞く。殴られはしないが、死なねばならぬ。いずれにしても、天皇陛下の名においての「前へ出よ」なのであった。
作者はそんな上官に向けて、天皇の威光を散々ふりかざしてきたお前らよ、ならば玉音放送も理解できたはずだろう。だったら今度は即刻お前らこそ「前に出よ」「出て説明してみやがれ」と啖呵を切っているのだ。
句は、怒りにぶるぶると震えている。(清水哲男)』
私の父は当時船舶設計技師だったので戦地には赴かず、軍艦の設計ばかりしていた。恐らくそのことを同胞、特に戦死していった友人達に負い目を感じて、あまり戦争のことを話したがらなかったのだろうと今では思う。
父が書いた簡単な自分史というものが手元にある。それによると「私は終戦という言葉が嫌いだ、敗戦と言って貰いたい。終戦とは為政者が自分達の失敗を糊塗する為に使った曖昧な言葉である」とあるが、これは8月15日が来ると毎年テレビに向かって怒って吐いていた言葉でもある。
「玉音を聞いて茫然自失し、しばらくは魂の抜け殻の様になり、仕事も何も出来なかった。もっとも、成すべき仕事もほとんどなかったのである」と心境を書いている。しかし生きるために成すべきことは山積みだった。翌日には疎開している妻を栃木まで迎えに行っている。
「切符が途中駅までしか手に入らなかったので、そこから約3里の道を歩いて向かった。やがて道は広い田んぼに出てその向こうに低い山並みが連なり、真っ赤な太陽がまさに沈もうとしていた。これが実に一幅の絵のように美しかった。私は強い感慨に打たれた。国破れて山河ありと。」
その年の夏長男が生まれ、すぐに次男が続き、昭和25年三男の私が生まれて、貧困の中、父母の新たな戦いが始まったのだが、不思議なコトに私の幼少時の記憶は全て幸福感に包まれているものばかりだ。戦争が終わった幸福感が父母を満たしていたのだろう。
戦争がなければ生まれて来るはずだった同時代の子供達の事を思うとき、私達は彼らの分まで生きてきただろうかと少し自省する。正解のない様々な感慨にふける今日である。
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