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司馬遼太郎 その2

昨日たまたま司馬遼太郎のことを書いたのだが、偶然とは恐ろしい。本日用事で訪問した小諸の蕎麦屋の主人から「司馬遼太郎とケンカをした」という話が飛び出した!? 

司馬遼太郎に「街道を行く」というシリーズものがある。日本全国の「街道」について書き記したシリーズで、時にはモンゴルや台湾等の海外にまで出張して書いたいわば紀行ものだ。週間朝日に連載されていた。全国の司馬ファンは次はオラが街道を書いてくれとヒソカに期待していた読み物でもあった。私の住んでいる所に近い街道で、司馬遼太郎が書いたものといえば「信州佐久みち」である。佐久みちを歩けば足は自然に北国街道に向くので、当然「北国街道」についての記述もあるのだろうと思っていたが、何故か「北国街道」について書かれることはついに無かった。「北国街道」は「佐久みち」などに比べればよほどの歴史や物語を秘めた第一級の街道である。司馬遼太郎にとっては是非とも書きたい、取材したい街道に違いなかった。それが何故書かれなかったのか?私の長年の謎だった。

それが本日出合った蕎麦屋のご主人との雑談で一挙に解決してしまった。こういうことがあるから世の中は面白い。
そのご主人は小諸懐古園前で蕎麦屋を営む80がらみのオーナーである。今から50年前、「小諸にも名物を」と考えた彼は独自で研究した結果、蕎麦は「7割そばが健康に良い」ということを発見した。(このことはある製薬会社の研究でも証明されたそうです)。この地で昔から蕎麦は食べられていたが「名物」という程の物ではなかった。そこで「7割蕎麦」をポリシーとして小諸の名産にしようとして孤軍奮闘、なんとか名物となった。「7割蕎麦」の効能や由来やその正当性なども認められ、大繁盛してついに一日1200食の蕎麦を提供する店になったのだが、その大繁忙期の絶頂期に、司馬遼太郎と取材班ご一行様が店に現れたのだった。しかしこっちは蕎麦打ちでネコの手も借りたい、取材班は予約もなしに突然やってきて「話を聞かせてくれ」という。「なんぼのもんじゃい」とご主人が思ったかどうかは知らないが、なにしろ手が離せない。取材班としてはご主人の話が聞きたい、一向に現れる気配が無い。ついに腹をたてた司馬遼太郎が「こんな扱いを蕎麦屋で受けたことが無い」と怒ったそうである。ご主人も若かったので売り言葉に買い言葉で応戦。すると「もう北国街道なんて金輪際書かない」と司馬遼太郎が血相を変えて出て行った、という顛末を話してくださったのだ・・・。へ~、ふ~ん、私は思わずヒザを打ってしまった。な~るホド、そうだったのかっ。ま、しかしこれは司馬さんの人間臭さが感じられてかえって微笑ましいエピソードだと受け取った。
で、司馬さんの名誉の為に補足すると、司馬さんは蕎麦屋の主人がすぐに出てこなかったからと言うだけで怒ったのではなかった。蕎麦屋に入る前から実は「怒りのタネ」はあったのだ。本を読めば分かる。
「小諸城の城内は、懐古園という公園になっている。その前の広場に古い蒸気機関車が置かれていて、まわりに大衆食堂が軒をならべ、どいうわけかパチンコ屋並みの大音響で音楽が拡声放送されていて、足がひるんでしまった。」と書いている。そして大音響から逃げるように蕎麦屋に入るのだが、そこで出くわしたぶっきらぼうな女店員の応対にあきれてしまった。無粋な観光地の大音響と無神経な女店員の応対にすでに怒っていたところに、主人とのケンカ腰なやりとりでついに腹の虫が据えかねた、というあたりがコトの真相だったのだ。(しかし、その蕎麦の味は美味かったと評価している)
いや~、おもしろいなぁ、司馬さんと縁のあるヒトから直接そんな話を聞けるなんて。

後日譚がある。ご主人の店は繁盛し県内の某所にも支店を出したが、ある日ご主人が支店で用事をしていると、なんとその店に司馬遼太郎が立ち寄ったのだという。まったく偶然の再会だ。「いや、店の名前が同じだったからひょっとしてね」という司馬遼太郎に、ご主人は「あの時は失礼しました」と謝った。すると司馬さんは「いや、こちらも余計なことを言ってしまって失礼でした」とおっしゃってくれたそうである。
その後わだかまりがとけたのかどうかは知らない、しかしご主人は「謝ることができた」ことにほっとした。「思えば不思議な出会いだったのですなぁ」と豪快に笑うご主人の名刺をあらためて眺めると、「信州そば産地表示推進協議会 会長」とあった。「小諸のそば」を全国区にし、「信州そば」を「7割そば」で売ろうと、現在も奮闘中の伝道師なのだった。良い人と出会えた。
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