隣は何をする人ぞ

この句は「秋深き」と始まるのが正解のようですが、私は「秋深し」と覚えております。
標高1000mの山に住む我家にはお互いの気配が伝わるような隣家がありません。なので、秋が深まっても隣の心配をする必要もなく、又、隣から心配される気遣いもないのであります。芭蕉も下世話な句を作ったものだとなぁと思うのですが、この句が死の2週間前に作られたものであると知って、急にこの句の持つ意味が広く深くなってきました。病床での絶唱「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」を除けば、芭蕉最後の作句であるということです。
その時芭蕉は既に病を得て病床にあり、ある句会に呼ばれていたが出かけられず、発句として人に託したものだということです。その句会は芭蕉欠席の為中止になったということですが、一体病床でどういう思いでこの句を託したのかに思いを馳せれば、なかなかに味わい深い句であるなぁとジンワリ身に沁みます。
今日、病を得て病床にいる我が父を、娘が見舞いに行く、とメールが入った。今は遠くにいる「我が父」と「我が娘」だが、いつも「何をする人」と気になる二人である。父に見せたい写真を娘に送り、どこかでプリントアウトして持っていくように指示したが便利な時代になったものだ、という感慨はさておき、娘が一人で「おじいちゃんを見舞いにいく」という事実と、「父が病床にある」という事実が、まっすぐ前にしか流れない時間というものの正直さを感じさせた。娘が成長すれば父が老いるのは当たり前だが・・・。娘は何を思い父の見舞いに行くのか、父は何を思い床に臥せっているのか、まさに「隣は何をする人ぞ」であるなぁと、ここで芭蕉に親近感を覚えてしまったのだった。なにもこんな時に芭蕉を持ち出さなくともいいのだが、今朝、予報が外れて空が高く青く広がった八ヶ岳を見て思わず「秋深し隣は何を・・・」とつぶやいたばかりだったのだ。
しみじみと色々なことを思う秋である。
スポンサーサイト

コメント

非公開コメント